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激増書庫

将棋と本についてのメモ

経済学の観念史

 

 Frank H. Knightさんが1973年ごろにお書きなすった“Economic History”という、長い文章があります。私の好きな一節(?)をどうぞ。

 日本では1990年に刊行された『西洋思想大事典』(平凡社)で、上山隆大さんの訳文と格闘できます。

 

【経済学という観念】

 分析的経済学の歴史は,プラトンの同時代人,クセノポンの造語〈オイコノミコス〉(oikonomikos)に遡れよう.それは,家,家庭あるいは所有地を意味する言葉と,管理する,統治するという意味の動詞の二つの語から造られている.中世にはこのラテン語形が,神学的意味も含め,幾つかの意味を担って使用された.17世紀になるとこの概念は,éonomie politiqueのフランス語名のもと,「国家」の管理の意に応用され始めた.絶対王制の確立によって国家が王の「財産〈エステイト〉」となった時,その意味に使用されるようになったのである.ドイツでは,「カメラリスムス」(Kamemlismus)と呼ばれた.「経済」という語およびその類語が,現在と同じ一般的意味を帯び始め,「所与」の手段と目的のもとで目的を達成する手段の「効果的」使用を示すようになったのもこの頃である.それより少し以前の国家主義的学問の教義は,普通「重商主義」と呼ばれる.重商主義の論者たちは,「貨幣」(金や銀)で受けとられた輸出入の超過差額こそが,国家の富を増大するのだと説いたからである.この貨幣と富の誤れる混同が暴露されたのは,18世紀も中頃になって特にディヴィド・ヒュームの『道徳・政治論集』においてであったが,この時代はまさに政治経済学への重要な過渡期であって,その後は経済学の名が支配的となっていった.

 重商主義の時期,イギリスでは多くの論者が「有利な」貿易収支を喧伝するだけでなく,より事実にもとづき,しかも政策とも関連づけながら政府活動の議論を重ねていた.しかも彼らは,後世の中心的論題である,経済的価値とは何か,またどのように決定されるかという問題にまで議論を進めていた.その先駆者ウィリアム・ペティ卿は17世紀後半に活躍した人物である.彼は近代統計学の基礎となった『政治算術』(1691)の著者として最も知られている.彼も含め同時代のジョン・ロックのような人々は,税,利子,貨幣また賃金をも論じている.というのも重商主義者たちは,他国との貿易競争を有利に運ぶために,賃金も利子も低くなければならないと説いたからである.17世紀も終わりに近づくと,国際貿易の自由化が主張され始め――貿易収支論を曲解してまで自由化が叫ばれることもあった――現代の学者によって再発見されたダドリー・ノース卿の『貿易論』(1691)は,貿易政策に関する理路整然とした見解を表わしたものとして,今日知られているのである.

[Philip Paul Wiener編『西洋思想大事典』644頁]

 

 

(2017.01.10追記)上記引用文につづく、次の文もお気に入り。ルビは亀甲括弧〔 〕に入れた。

【近代の文化革命】

 過渡期のこの時代に生じた根底的変化は,文化的・歴史的あるいは「精神的」革命であり,知的・社会的態度一般の「転換」であった.この事件こそ,西欧の歴史の特質を示している.政治的には,西欧文明はギリシアの都市国家〔ポリス〕で最初に花開き,ギリシア人の王国やローマ帝国に受け継がれ,さらに中世の教会・宗教文化によって政治経済的封建制と結びつけられた.ルネサンスになると,この封建秩序は,君主制的「国家‐主義」(stat-ism)に席を譲る.次いで啓蒙運動がこの「朕は国家なり」(L’Érat, c’est moi)の考えに代えて,全く新しい個人主義,即ち自由の思考を生み出すこととなった.自由と進歩はコインの裏表である.自由を通じた進歩,そして進歩のための自由として両者は堅く結合し,それを導くのが知性であった.この「自由主義革命」は,おそらく歴史上最大の文化的大転換だったろう.その結果なによりも,人は伝統や権威からほぼ解放され,競争が人を駆り立てるようになっていった.だが,このことが結局は幾つかの「見えざる手」を通して,建設的な活動に結びついた.「物的」な相互利益,競技精神〔スポーツマンシップ〕,技能,科学的好奇心,さらには公徳心,同情,慈善などがうまく作用したのだ.これらのどれもが新しく生まれたというのではない.しかし,その激しいほとばしりと組み合わせの妙が,歴史的革命を達成させたのである.

 新しい「科学」としての政治経済学は,スコットランドアダム・スミスの名高い『国富論』によって1776年に誕生した.あくまで実用的主題に貫かれたこの書物は,現代の分析科学としての経済学が全体に浸透し始めた1870年頃まで支配的であった.新しい動向の中心的観念も自由であったが,今や理性に基づく一つの科学的基本原理が生まれたのである.この動きは,経済的(と同時に)政治的側面とより密接に結びついていた.もっとも宗教や文化の方が人間性には重要なものなのだが(経済的自由を求めるスミスの偉大な声明は,その政治的側面であるジェファソンのアメリカ独立宣言と,ほぼ同時期になされた).自由が消極的概念――強制のないこと――だという事実はともかくとして,新たに導入された全く明確な概念よりも,誤りとして捨てられたものを中心に考えていく方が,現実的であろうし,またここでの議論にとって適切だと思われる.

 思想史から学ぶ最大の教訓に次のものがある.後世の目からは一目瞭然のことがらが論じられるのを見ると,最高級の知性も含め,人間の進化は,かくも「凍結した」ように遅いものかと思わざるを得ないのである.経済という概念がその良い例だ.人々はこの語をずっと使ってきた――多くの文脈でそれこそ「経済的に使用」してきたはずだ――にもかかわらず,その原理には気づかなかった.モリエールの『町人貴族』に出てくる,例のジュールダンが幼い頃からずっと話してきた物語の真実を知って愕然としたようなものだ.人間は分業さえ行い,原始的な市場で交換して,数千年の間何らかの「貨幣」を使ってきたはずなのである.ところが,物理的自然では,日友の生活で絶えず遭遇している「慣性」の概念を把握するのに幾世紀も必要とした.アリストテレスや後の偉大な思想家たちは,運動は,開始しても何らかの力による連続的後援がない限り停止すると考えていた.ガリレイによって正反対の真理が示されるまで,ずっとこう信じられてきたのである.

 アダム・スミスは,例の書物に「政治経済学〔ポリティカル・エコノミー〕」の名を付けなかった.おそらくはこの語が,彼の同郷人ジェイムズ・デナム・スチュアート卿の主著『経済学原理』(1767)に用いられており,スチュアートが明らかに古い「重商主義」学派に属していたためであろう.経済的自由も政治的自由も,ともに1世紀以上にまたがる,イギリスの「歴史的要因」から進展した.そしてスミスのこの書はもともと,より完全な経済的自由(〔自由放任〕後にLaisser-faireと,現在Laisser-Faireと綴る)のための「宣伝書〔プロパガンダ〕」であった.彼も,そしてその後継者の政治経済学者も,現在考えられているような合理的経済分析を用いて,主張を展開したのではなかった.代替可能な使途への適切な配分を通して,資源からの収穫最大化が実現するという考え方は,彼らの概念にはなかった(しかも彼らは,「産業革命」の真っ直中にいたにもかかわらず,「技術」にはほとんど注意を払わなかった.ところが,技術こそが時代の最大の要素であったし,また日常の経済の概念での決定的な因子なのである).経済分析の二つの主要テーマ,価格と分配を扱う時,彼らの前提条件はひどく馬鹿げたものであったし,とりわけ分配とは生産手段の価格づけの問題に他ならないのだ,という点が見落とされていた.彼らは社会生産物を賃金,地代,「利潤」の三つの「部分」に分割するという,道徳臭い,あるいは社会経験の域を出ない概念を採っていた.所得には,それぞれの源から発生する三つの型があるという誤った認識に立って,その各々が三つの別個の社会階級によって受けとられる,と考えていたのである.